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特定非営利活動法人がんサポートコミュニティーは、がん患者さんとそのご家族のために専門家による心理社会的なサポートを提供するNPOです。

TEL. 03-6809-1825

105-0001 東京都港区虎ノ門3丁目10-4
虎ノ門ガーデン
214号室

頭頸部がんHEAD & NECK CANCER

「わが「終活」のお守り“南極の砂”」T・S(80歳代男性、歯肉)

私は現在83歳ですが、80歳のときに余命3年を覚悟し、みずからの残りの生を限定することによって、できるだけ充実した日にちを送るべく決意しました。それこそ、わが「終活」の始まりでした。ところが、時の経つのは早いもので、ノホホンと暮らしているうちに、たちまち3年の歳月は飛び去り、今年の夏の誕生日までには、いよいよ御臨終の日を迎えなければならなくなったのです。もしも、無事に御臨終に至らなかったら、いったい、どうすればよいのか。これは、最近の私にとって頭の痛い課題だったのです。
それが、昨年のクリスマスパーティーの日に渥美先生から“南極の砂”をいただいたことにより、わが「終活プラン」を再編成することができました。以下はそのお話。
カノープス(南極老人星)という一等星があります。この星は南半球まで行かないと見られない星座にあるので、日本では沖縄以南の緯度の地でないとダメとかで、ゆえに、この星を見られた人は長生きをするという伝説もあって、別名を寿老人(七福神のお仲間)星とも呼ばれています。
私は1983(昭和58)年の秋に、小笠原父島(沖縄とほぼ同緯度)に出張した折、深夜、中天高く上がったオリオン星座の真下の、暗い海面スレスレの位置に、輝くカノープスを望見するという幸運に恵まれた記憶があります。以来、私が人並みの長寿を保ち得たのは、あの時にカノープスを見ることができたからに違いないと確信しております。なにしろ、東京空襲の死に損ないだった上に、「肺結核」と「がん」という新旧二つの国民病の双方を、共に手術と化学療法とで、なんとか乗り切ってきた私なのです。自分でも、よく生きてきたなと思う次第です。
とはいえ、幾らなんでも、これ以上を欲張って、従来の伝説の効き目の上にあぐらをかいているわけにもいきません。そこで私は、今年からは控えめに半年ずつの小刻みで、わが余命を伸ばして行くことに決めました。その方法は、お正月の元日と、七月の誕生日とに、この“南極の砂”の小瓶を振ることによって、わが余命の決意を新たにしようということにしたのです。
この砂こそは、南極にあって、南極老人星(カノープス)は勿論、かの南十字星(サザンクロス)をも、太古の昔から眺め続けてきた砂なのですから、わが長寿のお守りとするには、これ以上ふさわしいものはないと考えます。ぜひ、1年に2回、この小瓶を、元気に振り続けていきたいと思います。
渥美先生、貴重な砂(現在はすでに採取が禁じられているとか)を、ありがとうございました。


ギリシャ神話のトロイ戦争の末、メネラウス王がヘレナと共にエジプトのアレキサンドリアへ向かう時、その航海は大変難航したが、幾多の困難を乗り越え、無事に辿り着くことができたのは水先案内人カノープスのお陰だったとか。T・Sさんにとって“南極の砂”はまさにカノープスとなりそうですね。

「不自由から得た自由」M・K(60歳代男性、下咽頭・胃・食道)

私は平成205月に下咽頭がんの手術で声を失いました。
5年位前から喉の痛みがあり、町医者にかかったところ「炎症がありますね」とのこと。でも痛みは一向になくならず「長い炎症だな」と思っていました。
いよいよ痛みが我慢できなくなり改めて町医者にかかったところ、「大きな病院で検査してもらいなさい」と言われ、市内の病院にかかった。市内の病院でも「わからない」とのことで大学病院を紹介してもらい再び検査を受けたところ、下咽頭にがんが見つかった。
しかし大学病院でも手術は難しいと言われ、国立がん研究センター東病院を紹介された。国立がん研究センター東病院に予約を入れて一週間後に診察を受けたところ、ステージWAとのことで手術が必要であるとの説明がありました。
がんと告知されたのは44日でしたが、病室の空き待ちで入院したのは522日でした。入院してから手術の説明を聞くまではいろいろと考え、不安な毎日を過ごしていました。主治医から声を残す手術もあるとの説明を受けました。しかし、その場合は術後に抗がん剤治療と放射線治療が必要なこと、再発の可能性があること、そして再発した場合は再手術が必要であることなどの課題もあることから、私は声を失っても構わないからと喉頭摘出手術を選びました。術後声が出せなくなったためコミュニケーションの方法として人工喉頭を使用しました。でも思ったように声が出せないこと、息切れが激しいことから手話の勉強を始めました。
平成2010月には胃がんが見つかり、内視鏡手術とピロリ菌駆除を受け、平成216月には食道がんが見つかり内視鏡手術を受けました。食道がんは平成22年と平成23年にも見つかり内視鏡手術を受けました。がんを体験したことで定期的な検査を受けることになり、このようにがんを早期に発見し早期に治療を受けられるようになった。今ではがんに対する不安よりも自分はがんで死ぬことはないのでは?と安心している毎日です。
手話も日常会話では不自由なくできるようになり新しい友人もできました。そして手話を通して手話落語も始め、身体障害者対象のパソコン教室にも通い始めました。この教室は一対一で分かりやすく、質問も手話や筆談でできるので楽しく学ぶことができます。
声を出せなくなりましたが、新しい友人との出会いがあり、患者会での仲間との出会いがありました。がんに罹って身体は不自由になりましたが、今までと違った生き方ができたことは良かったと思っています。


自由とは、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことを言います。声を出せなくなることで、今まで選択することもなかったことに挑戦できたことはまさに不自由から得た自由なのかもしれませんね。

「やっぱり個性」F・K(50歳代女性、顎下腺)

「う〜ん、顎下腺に何かありますね。大きい病院で調べてもらってください。」
これが“顎下腺”という言葉との初めての出会いでした。その2か月ほど前から、左の顎の下にぷよんとしたものを感じ、しばらくしてもなくならないので、風邪薬をもらいに行ったついでに診ていただいたホームドクターの診断で、20104月のことです。
そして、近くの大学病院で検査を受けたところ、CTや細胞診の結果から担当していただいた医師(主治医)からは「腫瘍という感じではないので少し様子を見ましょう。」というお話でした。半年後に大学病院に伺った時には、「やや大きくなったみたいだから、悪化する場合があるので採っておきますか…」と主治医のトーンが変わり、人生初の手術を201141日に受ける予定でした。
ところが、あの東日本の大地震!
埼玉は被災者をたくさん受け入れていたので、「手術場が予定通り動かなく、緊急性のあるがんの方を優先するので、(私は)延期してほしい。」との主治医からの電話。…まあ、仕方ないか…と思っていたら「病院も落ち着いたので予定通り手術をやりましょう。」と再度連絡が入り、世間の計画停電騒ぎ同様に、わが家もバタバタして手術を受けることになりました。
「きれいに採れました。まず問題はないでしょう。」と言う術後の主治医のニコニコ顔が1週間後の病理結果が出た時には、強張っていました。
両親をがんで亡くしている私にとって“がん”は身近なものであり、いずれ自分にも来ると覚悟していました。でも、ちょっと早い!まだ52なのに。おまけに聞いたことない“顎下腺がん”なんて…。親友に「全く!他人と一緒が嫌だからって、そんなものまで珍しいものにすることないのに!」と言われた時は、2人で爆笑してしまいました。
そんな私が最初にしたことは、転院先探しでした。頭頸部のがんは、がん全体の5%未満。その中でたくさんの部位に分かれているので症例が少なめ。今の病院も千床を超す地域の大病院ではあるけれど私の病気は、ほぼいないようでした。とにかく症例数の多い病院をとがん専門病院に転院。「今回の手術は良性用の手術法で、安全域を採らなかったから、それが気がかりです。」という手術をしていただいた主治医の意見をもとに、新しい主治医の判断でその年の七月に頸部廓清術を受けて現在に至っています。
がんサポートコミュニティーとの出会いは、父が竹中文良先生(がんサポートコミュニティーの前身であるジャパン・ウェルネスの創設者)の著書を持っていて私も拝読したことがあり、勝手に親近感を持っていたのと、私みたい特殊部位でも入会OKとのことでしたので、即お電話をしました。
今ではサポートグループの方とも、いろんなことをお話しできて、同時に始めた合唱(いきのちから)共々、毎回楽しみに参加させていただいています。

人は話し相手や情報の少なさから、不安や孤独の中で常に身構えていることを強いられて感情を閉ざし、心のゆとりや自分らしさを見失ってしまうこともあるかもしれません。がん患者さんのそんな状態を解消してくれるのがサポートグループだと思います。

「病気との触れ合い」T・O(60歳代男性、上顎洞)

2008324日、東京医科大学病院で上顎洞がん、余命3ヶ月と告知を受けた。
それからは仕事を辞めて検査の日々、何も考えず病院通いの毎日だった。主治医の言われるままのレールに乗って放射線治療と2回にわたる化学療法を受けた。この後は手術と主治医から言われていたが、フッとこれでいいのかと疑問を感じた。手術を受ける前に他の先生にも話を聞いてみよう、セカンドオピニオンだと思い、国立がん研究センターや有明がん研究病院に電話をかけた。運良く有明がん研究病院の予約が取れた。
セカンドオピニオンで対応してくださった先生は穏やかな方で、この先生であればと思い、今の自分が置かれた状況について話を聞いた。話の最後に先生から「(セカンドオピニオンで)他をまた受けられますか?」と問われ、「はい」と応えた。それに対して先生は「それであれば私の師匠が国際医療福祉大学三田病院の副院長で上顎洞がんが専門です。」と紹介してくださり、サードオピニオンを受けることにした。サードオピニオンで対応してくださった先生、この先生も信頼できる方だと直感し、話を伺った。その後、東京医科大学病院総合相談・支援センターがん相談窓口のソーシャルワーカーと相談をし、最後は自分の判断で三田病院に移り、その後の経過を診ていただくことにした。
2012112日、再発が見つかった。息子はどんな姿であっても生きていて欲しいと手術を希望したが、主治医から「残念です。脳に近いので手術はできません。申し訳ありません。」と言われた。今は三田病院から緩和ケアのある要町病院に移り、月1回通院している。
おそらく誰もが「なぜ自分が“がん”になったのか」とか、「どうにかして自分だけは生き残りたい」と思うのであろうが、再発と言われたときにその思いはなかった。連れ合いは「今までの女の怨念だ!」とバカなことを言って、未だに私を病人と認めようとしないところがある。でもそれは彼女の精一杯の抵抗かなと思っている。
再発と言われたが治療としてできることはない。これからの人生をどのように生きればいいかと考える。
365日、精一杯仕事をしてきた。私にとって仕事は趣味の一つのようなもので、家庭を犠牲にして自分の夢を追い続けてきた。罪な生き方をしてきたのかなと思うこともある。それでも病気になってから息子夫婦はいつも気にかけてくれている。感謝の極みだ。
病気は身体の中で日々変化をしている。この何とも言えない身体に死を意識し、ときに不安が頭をもたげ、ときに将来がんが浸潤して脳が破壊され全てがわからなくなる自分を感じ、ときに何もできない自分に腹を立てて、ボランティアや勉強会などに参加しながら、生と死との狭間で、“生とは?死とは?自分とは?”と答えを探し続けている。
こうして考えることや心配事は数限りないが、後は神を信じ全てを委ねるだけである。
関わる全ての人に愛を。ハレルヤ。

哲学者ソクラテスは死刑が宣告され脱獄を促す弟子たちに「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくてよく生きるということなのだ。」と自ら毒杯を煽る死を選択しました。あらゆる場で死をタブー化せずに「いかに生きるべきか」と同じように「いかに死すべきか」を語り合う姿勢が現代を生きる私たちには必要なのかもしれませんね。

バナースペース

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